今回はかなりマニアックな内容ですが、自分のフェイバリット・アーティストであるジャマイカのナンバーワン・トランペッター「RAYMOND
HARPER(レイモンド・ハーパー)」について書きたいと思います。
レイモンド・ハーパーは1940年代から活躍していたミュージシャンで「実力や実績」から考えても、もっと評価されるべきミュージシャンだと思うのですが、ほとんど語られる事も無く、また活字によって招介される事もないので、自分自身「謎のミュージシャン」という印象でした。
しかし、レイモンド・ハーパーの素晴らしい「優雅で上品、そしてスィート!!(トミー・マックックに言わせるとジャマイカのハリー・ジェイムス!!)」なプレイを聴けば聴くほど「どんなミュージシャン」なのかが知りたくなっていきました。
そしてジャマイカのラジオや当時のアーティストのインタビューなどで仕入れた情報をつなぎ合わせて偉大なミュージシャン「レイモンド・ハーパー」を少しでも再評価してもらえればと考えています。
レイモンド・ハーパーは1926年生まれで1937年4月アルファ・ボーイズ・スクールに入学します。(世代的にドン・ドラモンド、トミー・マックックと同世代)そこでトランペットを学び1943年卒業と同時にプロのミュージシャンとして活動を開始します。
Eric Dean楽団、Don Hitchman's sextet、Sonny Bradshow楽団、Roy Coburn's Blu-Flamesなどのジャマイカのトップクラスのジャズ・バンドでトミー・マックック、ドン・ドラモンド、ローランド・アルフォンソなどと共演し、名実ともにジャマイカのトップ・トランペッターとなります。
スカタライツのレスター・スターリングによると「初めて会ったのは'50年代初めモンテゴ・ベイのRedver Cook楽団で、当時から自分のトーン(スタイル)を貫いていた」と語っています。当時レスターはトランペット・プレイヤーだったのですが「チャーリー・パーカーに憧れてアルト・サックスに転向した」とも語っています。
そしてジャマイカでレコードの生産が開始されスカが誕生するとコクソン・ドッド、デューク・リードの元でレコーディングに参加しますが、最も印象的なのは大ヒット曲「African
Brood」をはじめ数多くのレコーディングに参加したプリンス・バスター・プロダクションです。
様々なプロデューサーの元で仕事をした割にはレイモンド・ハーパーの名前がクレジットされる事は少なく、それが知名度の低さに繋がっているのはとても残念です。
しかしイントロを聴いただけで彼のプレイだと解るほど、独特で存在感の大きなプレイスタイルは聴く者を引き付けて離しません。
未確認ながらレイモンド・ハーパーのレーベルとも言われているDr. Birdレーベルはクオリティの高さからヨーロッパをはじめ日本のコレクターにも人気のレーベルですが、レコードは珍しくCD化もされていないので簡単に聴く事が出来ないのが残念です。(イギリスの有名なコレクター、ギャズ・メイオール監修のCD「Top
Ska」にSKA-TA-BRAINが収録されていますので是非聞いてみて下さい)
レイモンド・ハーパーはロード・クリエーターとの親交も深かったらしく、ロード・クリエーターはラジオのインタビューで「最初に会ったのは1962年ジャマイカで初めてのショウをした時にレイモンド・ハーパーがランディーズのヴィンセント・チンを連れてきた時でした。そこでヴィンセント・チンにジャマイカの独立が近いのでインデペンデント・ジャマイカをレコーディングしたいと言われたのですが、ジャマイカに来たばかりでジャマイカの事を良く知りませんでした。しかしレイモンド・ハーパーが新聞を持ってきてくれてジャマイカの情報を詳しく教えてくれたのです。インデペンデント・ジャマイカの歌詞のコアな部分はレイモンド・ハーパーのおかげで出来た物です。それ以外にも一緒にクラブやレストランに行ったりと常に一緒に行動していました。レイモンド・ハーパーはとても静かで物腰も柔らかく素晴らしい人物でした」と語っています。
レイモンド・ハーパーは'60年代後半にはレコーディングも減ってしまい、次第に忘れられて行きます。
そして1996年12月26日のボクシング・デイに69才で永遠の眠りにつきます。
しかし彼の魂とも言える数々の名曲は永遠に生き続け、今日もジャマイカを初め世界中のヴィンテージセレクターによってプレイされています。自分も思い入れ一杯にプレイし続けます!!